運動に携わってきた方々の思いを集めました

アフリカ毛布と私
運動を支えた
ボランティアの座談会

運動の終了が決定した2022年に、これまでご協力くださった方からメッセージをいただきました。

かたちや場所は違っても
今後も共に世界を良くするための取り組みを

KNさん(千葉県)

アフリカで目の当たりにした貧困

現在、社会人11年目になりますが、大学3年生の時にモザンビークへの配付ボランティアに参加しました。当時、私は特定非営利活動法人 JHP・学校をつくる会に所属していて、大学1年生、2年生の時にカンボジアを訪問し、教育支援事業として小学校の校庭にブランコをつくるボランティアを経験していました。

JHPで一緒に活動をしていた先輩たちが毛布の配付ボランティアにすでに参加していて「行ってみたほうがいいよ」と勧めてくれたことがきっかけでした。詳しく話を聞く中で、自分の視野を広げる機会になることやJHP以外の人との出会い、一緒に活動できることなどに興味を持ち、応募しました。

話を聞いていたものの、実際に現地を訪れてみると貧しさや経済格差に衝撃を受けました。都市部から車を一時間ほど走らせて地方に入っただけで、人びとの暮らしが変わりました。分かりやすいのは家のつくりです。例えて言うなら、『三匹の子ぶた』という童話に出てくる藁(わら)の家。非常に簡易的なものでした。そのような家で暮らす人たちにとって、毛布がどれだけ価値を持つかを知りました。モザンビーク国内の経済格差はもちろん、普段、自分が日本でいかに便利な暮らしをしているかを考える機会にもなりました。

毛布の配付ボランティアに限らず、カンボジアでの経験も踏まえて感じたことですが、どうしてもこうした取り組みは「物を渡す活動」と思われがちです。私自身、「なぜカンボジアにブランコが必要なの?」「なぜ経費を使って現地に行くの? お金を送った方がいいのでは」とよく聞かれました。私は、日本人が「皆さんのことを気にかけています」と顔を見せにいくことが現地を訪問する意味だと思っています。また当時、大学生の私は特別な経験があるわけではなく、頭が良いわけでもなく、お金も持っていませんでした。できることは現地を訪問して見たことや聞いたこと、匂いなども一つ一つを周りの人に伝えること。そう考え、啓発活動に力を入れたものでした。

「できることからはじめよう」の精神で

訪問先の子どもたち。ボランティア隊を歓迎してくれた

訪問先の子どもたち。ボランティア隊を歓迎してくれた

もともと「食」に興味があり、大学では醸造について、具体的には味噌や醤油、酒など発酵に関することを学んでいました。子どもの頃、アトピー性皮膚炎だったため、親が食生活をとても大事にしてくれていたのが食への関心が強くなったきっかけです。将来は食に関わる仕事がしたいと考えていましたが、カンボジアやモザンビークを訪れたことでその思いはさらに強くなりました。世の中には食べたくても食べられない人がいること、フードロスの問題――そうした大きな意味で食に関する問題に少しでも関わりたいと大学卒業後、食品メーカーに入社し、現在は原材料の買い付けなどを担当しています。

今年で運動が終わると知り、一つの取り組みを長く続ける大切さを思うと同時に、難しさについても感じています。仕事柄、自然環境の変化による食糧生産量の減少を目の当たりにし、国際情勢、今ならロシアによるウクライナ侵攻の影響を受けています。国際貢献活動もさまざまなことが起こる中で、その時々に必要な支援を見極め、行っていくことはとても難しいだろうと思います。

これまで多くの方が毛布を寄付してくださったり、実質的な労働を提供してくださったりしたことで運動が継続し、アフリカの人たちへ届けることができました。本当に素晴らしいと思います。一方、支援のかたちはいくつもあると思うので、いろいろな人や団体が今できることを一つ一つ行っていくことで、アフリカをはじめ世界が少しずつ良くなっていくと信じています。

私がJHPで学んだのは「できることからはじめよう」ということでした。その精神を今も大事にしています。また、自分の意見を持ち、発信することも大切だと思っています。「紛争は良くない」「学生時代の経験からこんなことが大切だと学んだ」ということを仲間や周囲の人に今後も話していきたいと思っています。そのつながり、広がりが世の中を良くしていくと思うからです。

今は仕事が忙しく、社会貢献活動に直接的に参画できていません。自分のできる小さな行動として、地雷やクラスター爆弾の除去を行う団体へ寄付をしています。かたちや場所は違っても、これからも皆さんと一緒に世の中を良くするための活動を続けることができたらと願っています。

知人や親戚を心配するようにアフリカを思う

TMさん(岐阜県)

地元中学校で運動の広がり 人づくりの一助に

運動がスタートした1984年、私は33歳でした。アフリカの人たちが飢餓に苦しんでいることと手を差し伸べる大切さを知り、毛布を購入して協力させてもらいました。以来、ずっと運動に関わらせてもらっています。

私は立正佼成会の会員ですが、会を挙げて取り組んでいたこともあり、同世代の仲間とともに一生懸命に活動してきました。岐阜市内の一番大きな公園で大規模な収集活動をした時、いくつもテントを張ったのですが、仲間とともに会場の見張り役をしようとテントの中で一晩過ごしたこともあります。2010年には配付ボランティア隊に参加し、モザンビークを訪問しました。

これまで運動に携わってきたなかで忘れられないのは、地元・美濃加茂市の2校の中学校との出会いです。10年くらい前ですが、美濃加茂明るい社会づくり協議会の会長を務めていた私は、校長先生とお会いした際に「アフリカへ毛布をおくる運動」の説明をさせてもらいました。運動の趣旨に賛同してくださった校長先生から、学校として取り組みたいと申し出をいただいたのでした。

「共生」という授業の一環として、全校生徒に運動の説明の機会をもらいました。運動の事務局の方を学校に招いて講演をしてもらったのですが、生徒さんが熱心に聞いてくださったのを覚えています。その後は生徒会が自主的に取り組んでくれました。自宅から毛布を持ってきてメッセージを作成し縫い付けたり、募金箱をつくって校内や街頭で輸送費の協力を募ったり。私としては、アフリカを支援したことが彼らの中学時代の良い思い出になってほしい、また将来、街で募金活動などに出合ったときに積極的に協力しようと思うような人になってほしい、そうした思いがわき起りました。2つの中学校での取り組みは、コロナ禍になるまで続きました。また、岐阜県内の他の中学校でも展開されるようになりました。

生徒さん、学校の先生方にはとても感謝しています。学ぶことの大切さ、信じてやってみる尊さを私自身が教えてもらったと思っています。中学時代の私を振り返ってみると、アフリカについてもよく知りませんでしたし、何か国際貢献をしていたわけでもありません。皆さんが熱心に取り組む姿勢を見て、とても頼もしく、嬉しく感じました。

地域の皆さんにも多大なるご支援、ご協力をいただきました。地元の新聞に運動のPRチラシを入れるととても反響がありました。旅館や施設から提供いただいたり、毛布がないから輸送費だけでもと寄付をいただいたり。運動を呼びかける私たちの仲間に加わってくださった人もいます。運動が多くの皆さんの「人の役に立ちたい」「行動したい」という善意の受け皿になれた。私はそう受けとめ、携われたことに心から感謝しています。

「一食」を抜き、困難な状況にある人たちのために献金を

美濃加茂明るい社会づくり協議会として、中学生と一緒に毛布収集に取り組んだ(Mさん提供)

美濃加茂明るい社会づくり協議会として、中学生と一緒に毛布収集に取り組んだ(Mさん提供)

配付ボランティアとして訪れた「モザンビーク」という国名をニュースで見たり、聞いたりすると、今も体のどこかが反応します。テレビであれば気になって録画することもあります。毛布を直接手渡した人の名前は分かりませんが、あんな人がいた、こんな人がいたという記憶が残っていて、「元気だろうか」「大丈夫だろうか」という思いがわき、祈りを捧げています。

運動の終了は残念ですが、いずれそういう時期が来るかもしれないと考えていました。モザンビークで毛布の配付活動をしながら、毛布を求めているすべての苦しんでいる人のうち、いったい何人に届けることができたのだろうと思いが巡りました。また、現地である女性が7年前にもらったという毛布を私たちに見せてくれましたが、それは日本ではとうてい使用されない穴だらけのものでした。そこまで大切にして使ってくれているのが有り難いと感じ、一枚でも多く届けたいと思うと同時に、複雑な気持ちになったことを覚えています。アフリカの問題の深刻さと支援の難しさを痛感しました。

私は立正佼成会の会員として月に数回食事を抜き、空腹感を味わうとともにその抜いた食事の代金を献金して世界各地の困難な状況にいる人々の支援に役立てる「一食を捧げる運動」をずっと続けています。一食運動の実践は私にとって喜びです。少しかもしれないけれども、誰かのために役立たせていただける。そう思えるからです。

「アフリカへ毛布をおくる運動」が終了するいま、私は改めてこの一食運動の意義をかみしめています。献金によって集まった浄財は、緊急性の高い、また継続支援の必要な問題や地域のために役立てられます。私は一食運動をさらに推進することが自分の役割だと捉え、自ら実践し、多くの人に広めてまいります。

モザンビークを訪問して触れた
厳しい環境と人びとの心の豊かさ

KMさん(兵庫県)

毛布一枚の重み

2017年に配付ボランティア隊としてモザンビークを訪問しました。

大学生の頃から運動に携わってきましたが、実際に毛布を手渡すという経験をとおして、現地の人に本当に喜ばれていること、毛布がとても求められていることを感じることができました。

一方で、配付活動中に申し訳ないような思いにもなりました。毛布の質に差があったからです。薄い毛布を渡された人が、上質のふかふかの毛布をうらやむような顔をしていました。当然だと思いました。また、過去に毛布をもらったという家族からは何度も洗濯して家族全員で大切に使っているという話を聞きました。

それまでたくさんの毛布を届けたいと思って運動に取り組んできましたが、受け取る人の気持ち、またその一枚がどのように使われるのかについて深く思いを馳せていなかったことに気づかされました。地域の皆さんから善意で寄せていただく毛布ですが、提供を呼びかける段階で「質」についても伝えさせていただきたいと強く思ったものでした。

配付活動の他に家庭訪問し、話を聞かせていただく機会がありました。皆さんが厳しい環境や条件のもとで生活されているのは事実ですが、そうした中でも、現地の人びとの精神的な豊かさを感じさせていただいたと私は思っています。

あるご夫婦は「私たちの間には愛情があるから、とても幸せなのです」とおっしゃいました。両親のいない家庭では年長のお兄ちゃん、お姉ちゃんが一生懸命に弟妹の世話をしていました。幼稚園を訪ねた時には、私たち外国人の来訪者を前にして子ども同士が「静かにしよう」と声をかけ合っている可愛いらしい姿を見ることができました。また、どこへ行っても両親はもちろん、その場にいる大人たちが子どもをよく構ってあげている様子が印象的でした。物質的に豊かといえる日本はどうだろうと考えたことを覚えています。

最低限、いのちが守られるように

立正佼成会神戸教会に寄せられた毛布。2020年の活動から(Mさん提供)

立正佼成会神戸教会に寄せられた毛布。2020年の活動から(Mさん提供)

もう一つ、私自身にとって大きな気づきがありました。それまですべての人のいのちは平等で、アフリカの人もその他の国の人も同じ人間同士、皆一緒だと思ってきました。立正佼成会でもそうしたことを勉強してきたつもりでした。しかし、ある現地の人と握手をし、ハグをした時、「ああ、この人も私と一緒だ」と初めて感じたのです。それはしみじみと味わったというものではなく、じわっと気づかされたような感覚でした。

私はその自分の感覚に驚き、とてもショックを受けました。頭で理解してきたつもりでしたが、「今まで、そう思っていなかったからなんだ」と考えたからです。国や肌の色の違いなど、どこかで自分と区別していたのかもしれません。握手やハグをしてその人の温もりを感じて始めて、「自分と同じ」だと気づけたこと。それは私にとってとても意味があり、大切な体験になりました。これから何事も他人事にしない努力をしなければいけない。そんな考えを持つことができました。

帰国後、所属する神戸教会で、現地で感じたことや気づいたことを報告させてもらいました。ちょうど収集キャンペーン期間中の5月のゴールデンウィーク後でした。そこから5月末までの2週間、多くの方が協力してくださり、400枚の毛布を集めることができました。アフリカの人の役に立ちたいという仲間たちの思い、「ふかふかのきれいな毛布をいただいたよ」と声をかけてくださる温かい気持ちにとても感動しました。

神戸教会では最終年の今年も運動を展開しています。毛布の収集に加え、集まった毛布が確実にアフリカに届けられるよう、輸送費の協力の呼びかけにも力を入れています。皆さんへ運動の概要を説明する担当をいただいたこともあり、改めてアフリカの現状を調べてみると、今また、歴史的な干ばつによって深刻な状況にあることを知り、胸が痛みました。日々の生活に追われて情報を把握できていないことを悔い、同時に、運動に関わることをとおしてそうした事実に気持ちを向けられることを改めて有り難く思いました。

モザンビークを訪れて、いのちが守られる大切さ、生きるために最低限必要な環境、衣食住などが整えられる重要性を強く感じました。今年で運動は終了しますが、毛布を届けるというかたちでの支援が終わり、次のステージに進むと受けとめています。最低限いのちを守るというための方法はいろいろあるだろうと思います。今後も私のできることを続けさせていただきます。

運動で深まった地域とのつながりを生かし
今後も社会を明るくする活動を

HKさん(東京都)

間の当たりにしたアフリカの人々の厳しい生活

「アフリカへ毛布をおくる運動」との出合いは2004年になります。

2006年には配付ボランティア隊のメンバーとしてエチオピアを訪問しました。

現地の皆さんの生活の厳しさを目の当たりにし、衝撃を受けたのを覚えています。旅行会社を経営している関係でアジアの国々を訪れていましたが、エチオピアはそれまで見たことのない光景、暮らしでした。印象的だったのはまず、家です。家と言っても土でできた「かまくら」のようなもので、その中にゴザを一枚敷いて寝ているということでした。一日の寒暖差が激しく、朝晩は気温が10℃以下まで下がってしまう現地の気候を考えると、毛布が果たす役割の重さを感じました。その上、食糧不足により食事は取れても1食、もしくは2食ということを知りました。

私は「アフリカへ毛布をおくる運動推進委員会」の構成団体である宗教法人立正佼成会の会員です。立正佼成会の会員は月に数回食事を抜き、その抜いた食事の代金を献金して世界各地の困難な状況にいる人々の支援に役立てる「一食を捧げる運動」に取り組んでいます。空腹感をとおして貧困や紛争下など困難な状況下にいる人々の苦しみを少しでも味わい、またそうした人々の平和を祈り、献金という具体的な行動を起こす運動です。

当たり前に3食を取ることができる中で、月に数回「一食を捧げる運動」として1食を抜いている私です。毎日1食か2食しか取れない人たちを目の前にし、いかに自分の生活が恵まれているかに気づかせてもらいました。また、「衣・食・住」のうちの「衣」と「住」を毛布がある程度補えることを知り、毛布をおくることをとおしてアフリカの人たちを可能な限り応援したいと強く思ったものでした。

一枚でも多くの毛布をアフリカへ。そう考え、帰国後も運動に励みました。10年前には「品川アフリカへ毛布をおくる会」を立ち上げ、東京・品川区が開催する社会貢献活動団体の活動を紹介するイベントにも参加するようになりました。区内のさまざまな社会貢献活動を行う団体が一堂に会するものですが、来場者へのPRだけでなく他団体の皆さんと互いの活動に協力し合ったり、告知し合ったりしてきました。5年前には同イベントの実行委員長も務めました。

近年ではSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を積極的に活用し、運動への協力を呼びかけています。品川区はマンションなど集合住宅が多く戸別訪問がなかなか難しい実状もあります。また昨年、一昨年のコロナ禍では戸建て住宅への訪問も控えたため、Facebookや地域ごとの情報掲示サイトなどでのPRに力を入れました。問い合わせや協力の申し出の連絡をいただいたら、訪問するというスタイルです。

遠いアフリカへ思いを馳せられるように

収集日に行われたメッセージの縫い付け

収集日に行われたメッセージの縫い付け

これまでのPR活動もそうですが、運動について説明する機会をいただいた時に私が大切にしてきたのは、「遠いアフリカの人々へ思いを馳せていただきたい」ということでした。目の前に困っている人がいたら大変そうだな、力になりたいと思うのはある意味自然なことかもしれません。目の前にいない、遠いアフリカで困っている人、苦しんでいる人のことをどのように感じてもらうか、心を寄せてもらえるか。それが大事だと考え、毛布を必要とするアフリカの現状と、私たちが毛布を送るだけではなく、心をおくる運動を行っていることを一生懸命に伝えました。

これは私自身にとっての実践でもあります。目に見えない世界、自分が直接的に触れることのできない世界や人々にどれだけ思いを寄せられるか。感性を磨くということだと思っていますが、運動をきっかけに少しはできるようになった気がしています。また、毛布を受け取りに行った際も、「毛布をもらいにきただけの人」と思われたくなく、とにかく丁寧に誠意を持って「この人に毛布を託せば、アフリカの困っている人に毛布が届く」と感じてもらえるような出会いにしようと努めてきました。

今年で運動が終了するのは大変残念ですが、前向きに捉えていこうと思っています。アフリカと縁をいただき、年々愛着が深まってきています。今後、どのようなかたちで関わっていこうか、今はそんなふうに考えています。振り返れば、運動を継続したことによって地域の皆さんとのつながりをたくさん持つことができました。長く運動に携わってきた皆さんもきっとそうだと思います。ぜひそうしたつながりを大事にして、違うかたちで地域を明るくするような取り組みをお互いさまにやっていけるといいのではないか。そんなふうにも感じています。

運動をとおしてお世話になった方に、「Think Globally, Act Locally(地球規模で考え、足元から行動する)」という精神を教えていただきました。応援する先はどこであれ、そうしたことを実現できる人が増えれば、より良い世の中になっていくと私は信じています。

心に染みる宮沢賢治の言葉
世界の幸福のために自分のできることを

TTさん(秋田県)

活動歴40年 運動スタート年から参加

私は現在、秋田県北明るい社会づくりの会の事務局長を務めています。「アフリカへ毛布をおくる運動」は同会の事業の一つとしてこれまで取り組んできました。

昨年、一昨年は新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえ、収集キャンペーンは実施できませんでした。そして今年、コロナ終息の目処が立たない中で、運動の終了が決まりました。私たちは、収集活動の実施を検討する前に、何をおいてもこれまで協力してくだった地域の皆さんに感謝を伝えようと確認しました。話し合いを重ねているうちに「だったら収集活動もやるべ!」となり、現在、活動の真っただ中です。

今年は運動事務局から提供いただいたチラシのほか、これまでの協力への感謝を綴ったオリジナルのチラシを作成し、2枚セットで地域の皆さんにお渡ししています。また、過去に輸送費の説明が不足していたことがあったので、これについてもチラシに丁寧な説明を記載しました。最後だからこそ正しく分かりやすく伝え、「協力したい」「何か役に立つことがあれば」というたくさんの人の思いをしっかり受けとめさせていただきたいと考えました。

振り返れば、私自身が運動と出会ったのは37歳の時、運動がスタートした1984年です。先輩に誘われて手伝いをしたことがきっかけでした。たくさんの先輩方の願いを受け継がせていただいて現在に至ります。初めアフリカは暑いところというイメージしかなく、「なぜ、アフリカに毛布?」と思ったものです。干ばつや貧困などで多くの人が厳しい状況にいることを学び、気の毒に思いました。

収集活動への気持ちをさらに奮い立たせてくれたのは、配付ボランティア隊として現地を訪れた親しい先輩の話でした。運動に取り組んで数年が経った頃だったと思います。貧困下にある生活、毛布を受け取った人のとても嬉しそうな様子、毛布を受け取るために何時間もかけて歩いてきた人がいたこと、希望するすべての人に配付できなかったこと。また、気温の寒暖差が激しいアフリカでは毛布が日除けや寒さを凌ぐためにも使われ、一軒の家に相当する価値があるなど、先輩が見てきたこと、聞いてきたことを分けてもらいました。

最後の収集キャンペーン
全国の仲間と お互いに「よくやった」言い合えるように

鹿角市で毛布の協力を呼びかける秋田県北明るい社会づくりの会のメンバー(Tさん提供)

鹿角市で毛布の協力を呼びかける秋田県北明るい社会づくりの会のメンバー(Tさん提供)

一枚の毛布の価値を知った私は〈これは一枚でも多く毛布をおくらなくてはいけない〉と思いました。そして、同じ志を持った仲間とともに地域で運動を展開することにしました。秋田県大館市の広報誌や新聞に掲載すると、本当に多くの反響をいただきました。協力してくださる皆さんの気持ちが温かく、胸が熱くなりました。

私は子どもの頃、祖母から繰り返し「人の役に立ちなさい」「人の喜ぶことをしなさい」と言われて育ちました。私なりに心がけてきたつもりですが、皆がそうした同じ気持ちや考えを持っていて、一緒にアフリカの人たちの幸せを願って行動していると思ったとき、とても嬉しく有り難く感じました。出会った人たちと「アフリカの人もきっと喜んでくれますよね」と言葉を交わしていたことを覚えています。長い間、一緒に取り組んだ仲間はもちろん、毛布を提供してくださった人たちとの出会いをいただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

運動が終わるのはやはり寂しいものです。確かに今の時代に毛布をおくるという支援が最善なのだろうかと考えたこともありましたが、毛布が欲しくても手にすることができない人がいることを想像するとかわいそうでなりません。また、今まさにロシアによるウクライナ侵攻が行われています。宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が心に染みています。

私は仕事を退職後、町内会長も務めています。私たちの地域は何か困りごとがあれば町内会長に連絡するといった習慣があるのですが、特に私の町内は高齢の方が多いため度々電話をいただいています。しかし、連絡をくださるから安否を確認できます。手伝いに行って元気な、また喜ぶ顔を見ると安心し、嬉しくなります。アフリカの人も町内の人も同じです。元気なうちに人の役に立てること、人に喜んでもらえることをさせていただくつもりです。

最後になりますが、長年一緒に運動に取り組んできた全国の皆さんにも感謝を伝えたいです。皆で頑張って、一年間に10万枚を超える毛布を収集したこともありました。本当に懐かしく思います。今年の収集活動が終わったとき、全国の皆さんと、お互いに「よくやったよね。ご苦労さま」と言い合えるよう、最後まで精いっぱい取り組みます。

多くの人の“善意”の受け皿として働ける喜び

RSさん(埼玉県)

スタートはボランティアスタッフの募集から

15年前に「アフリカへ毛布をおくる運動」のボランティアグループを立ち上げ、埼玉県入間市のイルミン(市民活動センター)に登録しました。それまでも運動に協力したことはありましたが、アフリカの現状を深く知るにつれ、地域の皆さんにより一層協力を呼びかけたいと思ったことがきっかけです。

近隣のお宅を訪ねることから始めました。アフリカの現状を説明し、道路に面した塀にポスターの掲示や毛布の提供をお願いするとともに、「ボランティアスタッフも募集しています」と伝えました。地域の新聞やケーブルテレビにも取り上げていただきました。善いと思ったらすぐに行動する。正しいことは必ず人さまに伝わる。そう信じ、積極的に動きました。

ボランティアスタッフは60代、70代の女性が中心で、長く携わっている人も少なくありません。初めて連絡をくださるときには、多くの人が自身の半生と社会貢献への思いを語ってくれたものです。体調を崩しがちだったり、定年退職や伴侶を亡くしたことによって喪失感を抱えたりしている人もいました。そうした皆さんがアフリカの人たちに思いを寄せ、「自分のできることで役に立ちたい」と勇気を出して電話をくださったことがとても嬉しく、有り難いと感じました。また、たくさんの仲間に出会うことで私自身が勇気を与えてもらいました。

収集キャンペーン期間中は、広報活動に始まり、日時を変えて複数カ所、多いときには10カ所に収集会場を設けました。連絡をいただけば県内各地どこでも伺ったものです。並行して定期的に市の無料の施設を借り、毛布の修繕やメッセージの縫い付けなどを行いました。お昼をはさんでの活動ですから各自お弁当を持参し、それぞれが得意な分野を担当して楽しく活動してきました。

“毛布”がくれた出会い、経験が宝物

スタッフが書いた毛布用メッセージとイラスト

スタッフが書いた毛布用メッセージとイラスト

地道な活動でしたが、通年の取り組みとしていたこともあって、ここ1年間に1940枚を収集させていただきました。印象的なのは、ほとんどの方が「協力させてください」という言葉を添えてくださったことです。皆さんの“善意”の受け皿として働かせていただいていることに感謝の気持ちでいっぱいです。

私自身、運動をとおして学びや貴重な経験もさせていただきました。ボランティアグループを立ち上げる前ですが、環境問題をテーマにした市のクリーンセンターの職員による講演会に参加し、新品や新品に近い状態の毛布がごみとして捨てられていること、また毛布を処理するには裁断や焼却など多額の費用がかかることを知りました。講演終了後、すぐさまその職員さんのもとに駆け寄って私たちの活動について説明し、毎月1回、状態の良いものを回収させていただけることになりました。現在も、1年間に2000枚以上の毛布がごみとして収集されているそうです。以前より毛布のごみは減ったものの、毛布の運動が終了して回収できなくなることは、環境問題の観点からもとても残念に感じています。

アフリカ諸国の課題や支援のあり方をテーマにした国際会議などにも数回参加しました。地域のお寺で運動について講演する機会をいただいたこともあります。振り返れば、本当に多くの皆さんと出会わせていただき、たくさんの学び、喜びを得ることができました。

運動が終了することはとても残念です。スタッフとは、地域の皆さんや施設を貸してくださる皆さんにこれまでの協力への感謝と、毛布収集は今年が最後ということをしっかり伝えていこうと確認しました。高齢メンバーが中心のせいか、市役所の職員さんからは趣味のサークルなどにかたちを変えて活動を継続することを勧められました。しかし、スタッフからは「ここに参加するのは人の役に立ちたいから」と社会貢献への思いが語られ、心強く、嬉しく感じました。今後、どのような活動に取り組むかについては皆で検討しているところです。

思えば、苦労したことが一つだけあります。それは洗濯した毛布を物干し竿に干すことです。汚れのある毛布は我が家ですべて洗濯していたのですが、私は身長が低いため、干すのにとにかく骨を折りました。洗濯用洗剤の購入費や水道代、電気代に驚いたことも、毎日毛布を洗うため洗濯機が壊れたことも良い思い出です。〈ああ、この一枚がアフリカの誰かを喜ばせてくれる〉。いつもそんなふうに考えて、これまで一つ一つの取り組みに心を込めさせていただいてきました。

“毛布”がくれたすべての出会い、経験が私の宝物です。

多くの人とのつながりと命の尊さを学んだ「アフリカへ毛布をおくる運動」

KTさん(山梨県)

市民運動化を目指した20年

私が「アフリカへ毛布をおくる運動」に本格的に取り組み始めたのは、ちょうど20年前の2002年からです。アフリカの現状や運動の目的を考えたとき、地域社会の多くの人々と一緒に取り組みたいと考え、社会活動に熱心だった先輩や仲間とともに「アフリカへ毛布をおくる運動 峡東地区推進委員会」(任意団体)を立ち上げました。

一人でも多くの方に運動を理解し参加していただくため、誰もが知っている公共施設に収集会場を設置しようと、甲州市民文化会館と山梨市役所の2カ所にお願いしました。広報活動は青壮年男性によるオリジナルチラシの配布に始まり、広報車での巡回、テレビやラジオ・新聞など、メディアからの取材・出演に力を注いできました。

最も反響があったのは、地元、NHK甲府放送局のニュース番組への出演です。地域イベントをPRする生放送のコーナーに、学生など若者たちが出演したその効果は絶大で、広く県民の皆さんへ知られるようになりました。

それを機に皆さんからの問い合わせが多くなり、経営している会社に事務局を設け、社員が電話対応や当日会場に届けられない毛布の受け取りなどにも協力させていただきました。

また、会社を通じて取引のある山梨中央銀行にも協力をお願いしました。銀行の店舗ロビーに、収集キャンペーン中の5月の1カ月間、アフリカを訪れた配付ボランティア隊の活動を伝える写真を展示してほしいとお願いしたところ、快諾していただき、国際貢献活動として数店舗で写真展を行っていただけることになったのです。

写真展の開催が10年を超えた2014年には、ケニアのNGO(非政府組織)「アフリカ開発緊急機構」のべナード・ウェソンガ事務局長らが同行本店や支店を表敬訪問されました。この訪問は多くのマスコミの注目を集め、銀行の皆さんも大変驚かれ、光栄に思ってくださいました。以降、以前にも増して、写真展の準備から収集会場の提供まで、積極的に協力してくださっています。

最終年は「ありがとうキャンペーン」に

「アフリカ開発緊急機構」からウェソンガ事務局長らが山梨中央銀行本店を訪問(Tさん提供)

「アフリカ開発緊急機構」からウェソンガ事務局長らが山梨中央銀行本店を訪問(Tさん提供)

20年を振り返ると、運動が本当にものすごい勢いで広がったなと感じずにはいられません。スタート時、峡東地域2カ所だった収集会場は協力する個人や団体も増え、新型コロナウイルス感染症の拡大前には山梨県下全体に広がり、9カ所になっていました。運動に関わる人々がアフリカを知り、一枚の毛布により、何かに目覚めたのだと思います。事務局への問い合わせも一年を通じていただくようになっていました。

運動がこれほどまで広がった理由について、私は「アフリカへ毛布をおくる運動」が単に毛布をおくることのみにとどまらず、私たちの想いを届ける運動に発展したからだと思っています。それは、この運動が誰でも参加、協力できる運動であり、毛布や輸送費の提供はもちろん、毛布へ添えるメッセージやイラストを描き、そのメッセージを縫い付け、さらには毛布の運搬や梱包作業など、老若男女それぞれが、世代を超えて役割を担うことができることです。皆の「アフリカの人の役に立ちたい」という想いを、自分にできるカタチで、行動につなげることができたからです。

なかでも、とても印象に残っている出会いがあります。あるとき、赤ちゃんを抱いたお母さんと娘さんが毛布を持って収集会場に来られました。お母さんは「この子が生まれた記念に何か善いことをしたい」と参加の理由を語ってくれました。新しい命の誕生という証にこの運動を選んでくださったことを知り、心が熱くなりました。

「毛布をおくってアフリカの人々に希望を届けたい」とスタートした取り組みですが、私自身が毛布を通して命の尊さや、たくさんの希望と勇気を与えていただいたと感じています。今年で運動は終了しますが、アフリカはまだまだ厳しい状況が続いています。これからもアフリカの人々の幸せを祈る気持ちに変わりはありません。アフリカに限らず、違った運動や活動で私たちの想いをカタチにする機会があるでしょう。そのときは地域の人々の善意の受け皿となれるよう、この経験を活かしたいと考えています。

今年のキャンペーンを、私たちは「ありがとうキャンペーン」と位置付けています。私たちにアフリカの人々とつながる機会をいただいた運動に感謝。一人ひとりの願いの詰まった毛布をお持ちくださった皆さんに感謝。そして、私たちの想いを受け入れてくださったアフリカの人々に感謝です。

多くの人とつながることができた「アフリカへ毛布をおくる運動」に関わることができたことの誇りを胸に、最後の収集キャンペーンに取り組ませていただきます。

心を揺さぶられたアフリカ訪問

MMさん(秋田県)

配付ボランティアとしてモザンビークへ

2008年に「配付ボランティア隊」としてモザンビークを訪問しました。「アフリカへ毛布をおくる運動」に携わって30年くらいになりますが、いつか現地を訪れて直接毛布を手渡したいと思っていた夢が叶いました。

現地を訪れたかったのは他にも理由があります。知人の大学生が配付ボランティアに参加したのですが、帰国した日の様子が印象的でした。仲間が用意した日本茶とお赤飯を前にして、ポロポロと涙をこぼしていたのです。疲れや帰国した安堵もあったかと思いますが、表情は明るいものではありませんでした。アフリカの現状を目の当たりにしてショックを受けたのだろうか。いつか私も彼女が見た風景を見てみたい。そんなふうに思ったのです。

モザンビークを訪れた年は、世界的に原油価格が高騰していました。出発直前、現地でもその影響で暴動が起きていて、状況によっては経由国で待機する可能性があることを知らされました。入国できたものの、暴動の様子や、バス代が値上がりして子どもを学校に通わせることができない、タクシードライバーが車を走らせることができないといった今まさに起きている話を聞き、日本の暮らしとの違いに大きな衝撃を受けました。

配付活動が始まると、毛布を手にしたり、胸に抱いたりして喜んでいる様子を見たり、過去に毛布を受け取った人のお宅を訪問したりするなかで、〈毛布が役に立っている〉と感じることができました。一方で、私たちを待っている配付予定枚数をはるかに超える人々の姿や毛布梱包用の紐でいいから欲しいという声などに困惑しました。毛布を受け取った人は無事に家に帰ることができるだろうか、毛布を巡って争いが起きてしまうのではないだろうか。そんなことも考えました。

配付活動中は喜びやそれとは違う感情、考えなどが交錯する毎日でした。知人の大学生が見た風景、感じた思いはこういうことだったのだろうかと想像したものです。また、毛布を求める人の多さに、渡せた、渡せなかったということばかりにとらわれ、「共に生きる」という運動の願いを忘れていた自分に気づき、苦しくなったこともありました。

そうした気持ちで迎えた最終日。毛布を届けたのはアクリディックというキリスト教の精神をベースにしたNGOが支援する貧困に苦しむ人たちでした。このコミュニティーの皆で毛布を受け取る人を相談して決めたという説明を受けました。多くの人が集まっていましたが、毛布を受け取った人を皆が温かく見守り、時には抱きかかえて祝福していました。私たちが帰るときには、無事帰国できるようにと祈りを捧げてくれました。他者のために祈るその姿に言葉で表現できない感動を覚え、運動の願いを改めてかみしめました。

市民の真心で運動が展開

2008年、配付ボランティア隊として活動したモザンビーク(佼成出版社提供)

2008年、配付ボランティア隊として活動したモザンビーク(佼成出版社提供)

配付ボランティアに限らず、これまで運動に携わってきたことを振り返ってみると、「アフリカへ毛布をおくる運動」はいつも私の心をさまざまに動かし、学びや気づきを与えてくれました。また、単に毛布をおくることを重視するなら、一企業が行ったほうがきっと効率が良く、確実です。しかし、私たちの運動は市民に呼びかけ、市民が応えています。アフリカで困っている人がいる。その事実に多くの人が心を動かされ、行動に移していると思うのです。まさに真心であり、運動に込められた願いがかたちになっていると感じています。

以前暮らしていた新潟県長岡市東川口は、2004年の新潟県中越地震で大きな被害にあいました。地域の皆さんに毛布の提供をお願いすると、「地震のときにいろいろな人にお世話になったから自分のできることをしたい」と快く協力してくれました。協力を呼びかける側の私たちも、そうした地域の皆さんの気持ちにさらに心を動かされ、自分ができることは何だろうと考えたり、アイデアを出し合ったりして一層の運動の推進に励んだものです。

今年の収集キャンペーンで運動が終了するのはとても残念です。しかし、いつの日かかたちを変え、互いのために祈り、行動するという「アフリカへ毛布をおくる運動」の精神が引き継がれる、新たな取り組みがスタートすることを願っています。

最後に、運動を運営してくださったJBACの皆さま、また私たちとアフリカの人々をつないでくださった現地NGOの皆さまに感謝を申し上げます。多くの人が携われる運動を展開してくださり、本当にありがとうございました。