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一食でのインターンを通して

Oct 31, 2021

現在、一食事務局では、2名の方をインターンとして迎えています!
今回は、お2人がインターンを通して感じたことをご紹介します!

みなさんこんにちは!一食事務局インターン生のIYです!寅さんの否定しない生き方に憧れている24歳です。 10月1日から30日間のインターンも終わりに近づいてきました。その中で感じたことを綴らせて頂きます。

 「アフリカに毛布をおくる運動」や「一食地域貢献プロジェクト」、6月に開催された一食フォーラムの動画視聴、チームミーティング、企画書づくりをする機会を頂きました。主に、文書を通してですが、みなさんと日々出合わせていただいています。文書から溢れている、みなさんの思いが、日々の実践が、一食を捧げる運動の土台なのだと感じます。  一食を捧げる運動は、私が生まれるずっと前からある運動ですが、とてもいまの時代に、いまの私たちの世代にも合っているように感じました。私たちにとって、身近になってきているSDGsの精神とも通じます。まだまだ声なき声がたくさんあると思いますが、いまは地球で抱える諸問題が少しずつ見える化してきています。そのような問題と私が無関係でないこと、つながり合っていること、力を合わせないと乗り越えられないかもしれないことが明らかになってきているように感じます。
 庭野日敬開祖の言葉に、「平和を実現させるのには、どんな小さなことでもいい、お互いが一つに溶け合うための行動を起こさなければなりません。それぞれが、自分の生活の場で、それぞれの仕事を通してできる平和活動が大切です。その積みかさねの中で『一人ひとりの力は微力でも、その力が結集すれば平和は実現する』という自信が生まれてきます」 とあります。みなさんが築き上げてきてくださった、いつでも、どこでも、だれでもが、いつまでも続けられる一食を捧げる運動のビッグウェーブに乗り、広げていきたいです!!!  

 今月は、1日、15日の昼食を節して、一食を捧げる運動をさせて頂きました。一食事務局のインターンでみなさんとの出合いがあったおかげさまで、一食を捧げる運動への取り組み方が変わりました。1日は、恥ずかしながら意識的に、朝食と夕食をたくさん食べてしまいました。ですが、その結果、「同悲ってなんだろう?」という問いが生まれました。そこから、庭野日敬開祖、庭野日鑛会長、庭野欽次郎氏などの一食への思いを学ばせて頂きました。また、自分自身の一食を捧げる運動への思いを振り返ってみました。
 小学生の時、衝撃を受けた、食べるものがなくお腹がふくれていたアフリカの同年代の子ども。生きたくても生きられなかった人がたくさんいること。ゆめポッケでフィリピンのミンダナオ島に行った時、諸宗教の子どもたちが「ともだち」だったこと、私もともだちになれたこと。大学で、シリアの難民女性とともによりよきいま・未来のために共動していた師のすがた。私は、いろんな出合いを通して、「世界が平和になりますように、まず私からやさしくなります」という祈りに立ち戻ってきていました。
 そして、「一食を捧げる運動」の原点を調べるなかで、『「一食を捧げる運動」理念と実践』の開祖のお言葉に出合いました。「この地球上にいま一緒に生まれ出ているという因縁を思えば」とあり、ハッとしました。これからも一食実践日はいつもより食べてしまう私かもしれません。そんな私でも、「この地球上にいま一緒に生まれ出ているという因縁を思えば」、「地球上のみんなのことを想って、一食実践せざるを得ない」心境になります。

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i 立正佼成会 一食平和基金事務局編『無関心では、いられない。「立正佼成会一食平和基金」の歩み』(立正佼成会 渉外部、1997年)3頁。

 みなさん、はじめまして!私は、10月初めからインターン生として、一食事務局に配属されています。葛飾教会出身で、青年の日には「寅さん」で有名な柴又帝釈天で「一食を捧げる運動」の実践をしていました。また、学林でも、毎月1日と15日には「一食を捧げる運動」として、一食分を抜き、献金をさせて頂いています。しかし、「一食を捧げる運動」については、勉強会に出た事や自ら自発的に学ぶという機会を作る事はできずにいました。

 今回、インターンの中で、微量ではありますが、学ばせて頂く機会を頂きました!ここでは、私が今まで「一食を捧げる運動」の実践を通して感じていた事、インターン生として一食事務局で過ごさせて頂いた事の気づきをお伝えさせて頂きたいと思います!

 私は、今まで葛飾教会や学林の中でも「一食を捧げる運動」の実践をさせて頂いておりましたが、一信仰者として「同悲・祈り・布施」の気持ちで実践させて頂けていただろうかと考えた時に、気持ちが追いつかない自分がいました。献金という形式に留まっている自分が居ると共に、それで支援先の方々の物質的援助になればいいやという諦める気持ちもありました。けれども、それでは一信仰者として、「一食を捧げる運動」実践の本質的な意義には到達できず、信仰的側面をもった「実践」ではなく、献金するという「行為」になっているのではないかと感じておりました。では、何が「行為」を「実践」とするのかという事をインターンシップの中で考えさせて頂きました。

 一食事務局の方々に、今年の613日に行われた一食推進全国フォーラムの録画映像を見させて頂きました。そこで、熊野委員長さんのお言葉に『何をもっても、つまらないものと記憶するとつまらないものとなり、人への祈りと記憶するとそれは喜びとなる。またそれが自分の人生となる』というお言葉があり、ものすごく印象的で刺激を受けました。このお言葉によって、今まで捉えてきた「一食を捧げる運動」の献金が「行為」として終わらせるのではなく、私の心の貯金も兼ね備わっているものだと感じさせて頂き、またそれは、何より自分の人生を豊かにすると気づきました。

 私は、支援先の方々と無意識の中で、境界線を引いてしまっていましたが、その方々の存在が、私の心を成長させてくださる「菩薩」であると気づいた瞬間に、「一食を捧げる運動」の見方が変わり、またそれは「行為」と「実践」のブリッジとなりました。だからこそ、「一食を捧げる運動」の実践日には、献金をするという「行為」で終わらせるのではなく、献金をさせていただいたという心の在り方、そして功徳としっかりと向き合っていきたいと思いました!その功徳、喜びをお伝えさせて頂く事が、自他共に救われる世界の一端になればと願っております。みなさま、ありがとうございました!